大阪府民の森誕生の物語り
大阪府民の森は、大阪府の府政開始(1868年)から 100周年の記念事業として、金剛生駒紀泉国定公園の主要な地
8か所に作られた自然公園です。 昭和42年(1967年)より用地買収が始まり、森林の整備や公園施設などが作られて昭和53年~平成3年(1978年~1991年)に府民に開放されました。
生駒山系に沿って北から順に、
くろんど園地、ほしだ園地 : 交野市
むろいけ園地: 四條畷市
くさか園地、ぬかた園地、なるかわ園地: 東大阪市
みずのみ園地: 八尾市
ちはや園地: 千早赤阪村
があり、それぞれに特徴をもった自然公園となっています。
(後に泉南市にほりご園地が追加されました)
府民の森がある生駒山系は大阪府の東側を南北に走る山脈で、大阪と奈良の境となっており、地形は大阪側が急峻で奈良側がなだらかな丘陵となっています。奈良時代には、生駒山系のあちこちに大阪と奈良を最短で結ぶ直越路(ただごえみち)ができて多くの人や物資が行き交いました。
また生駒の山は、花崗岩質で大岩や滝がかかった深い沢や森があり、古くから信仰の場となり、山の麓は牛馬用の草場として、また山からは薪や柴などの燃料を取る里山として利用されていました。
戦前は、生駒の山は過度の里山利用で はげ山となっていました。左の写真は昭和20年代の神津嶽、交野山、泉南の山です。いずれも上部は樹木がない状態でした。戦後は植林がされて徐々にみどりを取り戻し、昭和40年(1965年)頃までは大きな自然の改変はありませんでした。
しかし日本が高度成長期の昭和40年(1965年)以降になると、化石燃料の普及とともに山の資源利用はされなくなり、都市建設や大阪湾の埋め立て用に山のあちこちで大規模な土砂採取が行われるようになりました。そして生駒の山は荒れて山肌には無残な傷跡が目立つようになっていきました。
また当時、生駒の山では、たばこの火の不始末による山火事が頻繁に発生していました。特に昭和43年と昭和45年には自衛隊が出動して消火に当たるような大規模火災があり、鎮火に30時間もかかり100ha以上の面積が焼けました。その後、昭和48年頃から森の復元のため、1万本のヤマザクラが植林され、ツツジもこの時に植えられて現在に至っています。
このような時代背景の中、大阪府庁の農林部の中に「このままでは、大阪のシンボルである生駒山がなくなる。何とか生駒の森を守りたい。そこで生駒の山腹に100haほどの山林を6ヶ所、合計600haの山林を大阪府が購入したい。何とか資金を工面してその森を守りたい。しかし大阪府にはその資金はない。そこで国からお金を確保し土地購入資金に充て、これ以上自然が破壊されないように自然公園にして生駒の山を守るとともに、人が自然と触れ合う場として府民に開放するという構想が生まれました。
国を説得する企画書は、「この山の緑を守ろう」と題して大阪府民の森構想図絵巻が作られ、これを当時の農林部長が大蔵省に持って行き、みごと600haの府民の森の土地購入代金として60億円を獲得しました。
府民の森の建設は、昭和42年(1967年)に用地買収が始まり、翌年には「府民の森プロジェクトチーム」が発足して「太陽と緑の森をつくろう」をキャッチフレーズに全体構想が作られ、昭和44年(1969年)に枚岡(現在の東大阪)市役所内に府民の森建設事務所が設置され、用地買収と整備が進められました。
そして昭和53年(1978年)に府民の森条例が作られ、くろんど、くさか、
ぬかた、なるかわの4園地がオープンし、その後、順次ほしだ、みずのみ、
むろいけ、ちはや、ほりご園地の利用が開始されました。
府民の森ができてから山火事は減少し、各園地はハイキングやキャンプなど自然を楽しむ場、都市を離れた癒しの場、人が自然の大切さを学ぶ環境教育の場など、人と自然のふれあいの場として多くの府民に利用されるようになり、来園者は平成30年(2018年)時点で年間150万人を超えています。
(2021/12/6記:T.T)
参考文献:「生駒山」 -- 歴史・文化・自然に触れる 大阪府みどり公社編
「森が都市を変える」 吉村元男著 学芸出版社