➀ 交野は潟野から来た説:
天野川沿いに交野市から枚方市にかけては、開けた平野になっている。
これは天野川の上流にある山地から土砂が下流に押し流されてできた丘陵
地で、この土地を潟野(かたの)と呼んだ。
➁ 肩野物部氏から来た説:
古代、交野の地は肩野物部氏が治めていた土地であったので肩野が交野
になったと言うもの。
③ 人や生き物が行き交った野から来た説:
平安時代には、交野の地は皇室や貴族の狩猟・遊興の地であった。
そこには、多くの人や生き物が行き交ったので交野となったと言うもの。
昔、弘法大師(空海)が交野の獅子窟に入り秘法を唱えると、七曜の星(北斗七星)から一帯の田の三所「星田妙見宮」、「星の森」、「光林寺」に星が分かれて降ったので「星田」と呼ばれるようになったという言い伝えがある。
また「星田」は、もともと「干田(乾し田)」から来たと言う説もある。
昔、星田の辺りは奥山の土砂の流出の激しさから扇状の地形が発達し、水田となりにくい「干田」が多く発生したことから来た地名だとも言われている。
古代交野の地は肩野物部氏の領地であったが、蘇我氏との勢力争いでその領地を敏達天皇の皇后(後の推古天皇)に献上した。これより交野の地は皇室領となり、村人は后(私=きさきの意)のために農耕をしたり、身の回りの世話をする私部(きさいべ)と呼ばれる部民(べのたみ)になった。その中心地は「私部内(きさいべのうち)」と呼ばれ、後に訛って「きさいち」となったと言う。
古代、天野川流域は肩野物部氏の領有地で、稲が作られ甘い米(美味しい米)が取れる平野と言うことで「甘野」と呼び、そこを流れる川を甘野川と呼んだ。また交野には渡来人が養蚕や機織りを教え(交野には七夕を祭る機物神社がある)、七夕の天の川伝説も伝えたことから、甘野川 --> 天の川 --> 天野川となったと言われている。
枚方、交野には星にまつわる地名: 星田、星が丘、星の森、南星台、 中宮(北極星のこと)などがある。
交野の七夕伝説のリンクはコチラをご覧ください。
天野川の上流には磐船神社があり、高さ12m、幅12mの船形の巨岩(天の磐船--あまのいわふね)をご神体としている。言い伝えでは物部氏の祖神と言われる饒速日命(にぎはやひのみこと)が、この磐船に乗って神社近くにある哮ヶ峰(たけるがみね--ほしだ園地のクライミングウォール横にある)--に降臨したと言われている。
天野川の上流には鮎返しの滝がある。
川のアユもこの滝を登れず、追い返してしまうほどの滝と言うことからこの名が付いた。
昔は観光の名勝であったが、現在はルートも廃れて訪れる人はいない。
ピトンとは、登山で岩登りをする時、岩の割れ目にハンマーで打ち込んで人を確保したり、手がかりや足場として用いる金属のくさびのことです。
フランス語でピトン : Piton、ドイツ語でハーケン : Haken と言います。 ピトンの小屋の名は、ほしだ園地に作られたクライミングウォールにちなんでその名がつけられました。