「くろんど」と言う呼び名はくろんど池に由来しています。今はくろんどは「黒添」と書きますが、くろんど池は平安時代嵯峨天皇の頃、蔵人(くろうど)職と呼ばれる貴族たちの別荘庭園として造られたと言われています。そして後に蔵人(くろうど)が訛って「くろんど」と呼ばれるようになりました。
※蔵人とは、天皇の側周りの用をつとめる貴族の役職のこと。
交野三山(交野山、旗振山、竜王山)の一つで、伝説では826年(天長3年)交野から大和の一帯が日照り続きが続き、時の天皇が弘法大師に交野地方に雨が降るように祈願する事を命じたという。
そこで、大師は早速竜王山に登って八大竜王を祭り、雨乞いをしたところ、一天にわかに掻き曇り雨が降ってきた。大師はその功により傍示の里に八大竜王を祭る八葉蓮華寺を建立し八つの坊を建てたと伝えられている。
山頂には花崗岩の巨岩が見られ、修験者が篭った岩屋などがある。
傍示の里には八葉蓮華寺があり、国の重要文化財に指定された「阿弥陀如来立像」がある。鎌倉時代の仏師快慶の作とされ82.4cmの高さがある。今はお寺はなく収蔵庫があるだけで毎年春と秋に一般公開される。
河内磐船駅から天田神社を抜けて民家の途切れたところから急な坂を上ると獅子窟寺がある。開基は役小角(えんのおづぬ)と伝えられている。奈良時代には聖武天皇の勅願で、僧「行基」が堂塔を建て彼が彫ったとされる薬師如来像がある。
またこの付近には巨石が多く金剛般若窟とも呼ばれ、平安時代には境内にある獅子窟で弘法大師空海も修行したと言われている。
元和元年(1615年)に大阪の役の時、獅子窟衆徒は大坂方に加勢すべく命じられたが、従わず兵火のため全山が焼失した。 後に一部再建されたが、往時の1/10にも満たなかった。
※獅子窟寺付近の巨石: 龍岩窟、鏡岩、八丈岩などがある。
かいがけとは「峡崖」と書き、山と山の狭い間や崖に囲まれた所と言う意味です。この道は昔から京都や大阪と奈良を結ぶ直越(ただごえ)道の一つで、時代とともに様々な人が行き交ったと言われています。
① 奈良時代 東大寺大仏建立の際、銅の鋳型が上手く出来ないため、
九州の宇佐八幡にいた渡来人の鋳型師が奈良へ行くことになりましたが、
一行は途中、枚方の百済寺や交野の獅子窟寺に宿泊し、かいがけ道を通って
奈良の都に入ったと言われています。
② 平安時代から鎌倉時代 京都の天皇や貴族たちの熊野(和歌山県)詣でが
盛んになり、京都から鳥羽に出て淀川を船で下り、交野に上がってかいがけ
の道を上り詰めて奈良に出て、王寺、五条を通って紀州へと向かいました。
③ 室町時代 くろんど園地から「かいがけの道」を下るとすぐに傍示(ほう
じ)の里があります。ここには「伊丹」姓の家が多くあります。かつて摂津
国伊丹城の城主伊丹兵庫守親興は室町幕府足利義昭に加勢して織田信長と
戦いましたが、宇治の槙島城が落とされ、親興は高槻芥川城に逃げ込み
ました。
しかしこの城も織田方の荒木村重に落とされ、親興は討死しました。
残った「伊丹一族」は淀川を渡って交野の地に逃げ、一族はついに交野の
寺村の竜王山の後ろにある「傍示の里」に逃れたのです。
伊丹氏が傍示の里にやってきたのは天正元年(1573)のことだと言われて
いますが、今でも一族の落人としての暮らしを偲ばせるものとして、山の
谷や森の中に「隠れ田」や「隠れ畑」がひっそりと残っています。
傍示の里の風景は一幅の絵のようでハイカーの目を和ませてくれる所です。
かいがけの道を下って行くと、所々に石碑があります。 これらは「伏拝(ふしおがみ)」の石碑と呼ばれ、昔の人々の生活の知恵で本当は社寺にお参りして、本殿にぬかづきお願いするべきなのですが、遠くから遥拝することでご利益を頼み、お祈りしたもので、その方向の中心が「伏拝みの碑」です。 「柳谷観音」(眼病平癒祈願--長岡京市)、「愛宕山大権現」(火の要慎--京都愛宕山)、「石清水八幡宮」(厄除け--京都八幡市)、「二月堂」(困ったとき?